とりあえず辞書をめくってみたくなる | [書評]舟を編む

舟を編む
著者: 三浦 しをん
ISBN:4334768806 / 発売日:2015-03-12
出版社.: 光文社

辞書作りの世界

日本語というのは時としてとても難しい、そんなことを強く感じる一冊です。小説の舞台は、出版社の辞書編集部です。新しい辞書を完成させるという、読者が想像もつかないような世界が細やかに描かれます。主人公は、ちょっと外見が野暮ったい馬締(まじめ)くん。

「きみは、『右』を説明しろと言われたら、どうする」

馬締は軽く首をかしげた。

「方向としての『右』ですか、思想としての『右』ですか」
「前者だ」
「そうですねえ」

馬締の首の角度が深くなった。髪の毛がもさもさ揺れる。

「『ペンや箸を使う手のほう』と言うと、左利きのひとを無視することになりますし、『心臓のないほう』と言っても、心臓が右がわにあるひともいるそうですからね。『体を北に向けたとき、東にあたるほう』とでも説明するのが無難ではないでしょうか」

常日頃、何気なく使っている言葉の端々が意識されます。辞書というのは他の書物と違い、それを学ぶための導きとなるものです。繊細で果てのない、すさまじい作業なんだろうと、この舞台そのものに感嘆します。

恋あり、友情あり

「まじめの趣味って、なんなの」

友好的な関係への道筋を探るべく、西岡が果敢に話題を振った。唇からはみでていたキクラゲを飲みこみ、馬締は少し考えているようだった。

「強いて言えば、エスカレーターに乗るひとを見ることです」

円卓にしばし沈黙が落ちた。

「楽しいの、それ」

佐々木が平坦な口調で問う。

「はい」

馬締はやや身を乗り出した。「電車からホームに降りたら、俺はわざとゆっくり歩くんです。乗客は俺を追い越して、エスカレーターに殺到していく。けれど、乱闘や混乱は生じません。まるでだれかが操っているかのように、二列になって順番にエスカレーターに乗る。しかも、左がわは立ち止まって運ばれていく列、右がわは歩いて上っていく列と、ちゃんとわかれて。ラッシュも気にならないほど、うつくしい情景です」

「いまさらですが、ヘンですよね、こいつ」

ささやきかけてきた西岡越しに、荒木は松本先生と目を合わせた。松本先生がうなずいた。馬締がなにを言いたいのか、荒木と松本先生にはよくわかった。

ホームにあふれていた人々が、吸い込まれるかのごとく、エスカレーターのまえで整列し運ばれていく。そこかしこに散らばっていた無数の言葉が、分類され、関連づけられて、整然と辞書のページに並び収まるように。

そこに美と喜びを見いだす馬締は、やはり辞書づくりに向いている。

……もしもそうであるなら、辞書づくりに向いているという人間は、ずいぶんと数が少ないのではないかと思いつつ、それでもそうやって説明されると、その気持ちもわからなくはない気がしてきます。とはいえ、エスカレーターに乗る人を観察する気持ちにはなりませんが。

ただ、馬締くんの、文字通りの「まじめぶり」は微笑ましく、その打ち込みようが羨ましくも感じます。

馬締の集中力と持続力も、驚くべきものだった。執筆要領を書いたり、用例採集カードを整理したりするときは、西岡が声をかけてもまったく耳に入らないらしい。昼も食べずに、何時間でも机に向かっている。黒い袖カバーが紙とこすれて発火しそうな勢いだ。まとまりの悪い髪が、いよいよ奔放に重力に逆らっているように見える。

「最近、ものがつかみにくくなりました」

馬締は笑って言った。資料をめくりすぎて、指紋がすり減ってしまったのだそうだ。西岡は五年も辞書編集部にいるが、指紋はまだ健在だというのに。

家にある辞書を……

馬締くんを始めとする様々な人々の長く苦しい作業、使う紙の色合いや質感、めくり心地にまでこだわる、ある種の執拗さ、辞書を出版することの、出版社としてのリスク。そんな諸々が描き出されて、馬締くんを主人公とした「小説」であるにも関わらず、ひょっとしたらこれはドキュメンタリーにもなり得る素材ではないのかと思わされます。

これを読み終わった後には、家にある辞書をめくってみたくなること請け合いです。

舟を編む
著者: 三浦 しをん
ISBN:4334768806 / 発売日:2015-03-12
出版社.: 光文社

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