患者の話を聞かない精神科医が癒しになる!? | [書評]イン・ザ・プール
ストレスをかかえがちな現代人へ
とりあえず、なんらかの不調の原因は、だいたいなんらかのストレス。と言ってもいいほどにストレスという言葉が蔓延している昨今だからこそ、この小説をおすすめしたいです。不調が続くと、人は病院を訪れます。でも、そこにはこんな精神科医がいるかもしれません。
「言っとくけど、聞かないから」伊良部が言った。
「はい?」
「ストレスの原因を探るとか、それを排除する工夫を練るとか、そういうの、ぼくはやんないから」
「はあ」
「ほら、最近よくテレビでカウンセラーが患者の悩みを聞いて励ましたりするシーンとかあるじゃない。ああいうの、何の役にも立たないことだから」
「……そうなんですか」
「そう。だいいち聞いてどうなるの。実はあなたが過去に人を殺して苦しんでいるとしたら、自首を勧めるか口止め料を要求するか、ぼくにできることはそれぐらいしかないでしょう」
「いや、べつにそういう過去はないんですが」
「いやな上司がいて、じゃあ毒でも盛る勇気があるのかと言ったら、あなた、ないわけでしょう」かまわず話している。「つまりストレスなんてのは、人生についてまわるものであって、元来あるものをなくそうなんてのはむだな努力なの。それより別のことに目を向けた方がいいわけ」
「と言いますと……」ほう、何か策でもあるのかと思った。
「たとえば、繁華街でやくざを闇討ちして歩くとかね」
繰り返しますが、ここに出てきた伊良部という登場人物は精神科医です。もし自分が、と想像します。もし自分が、ストレスに追い詰められて病院へ赴いた時、当の精神科医にこんなことを言われたら。
あいた口がふさがらないとはまさにこのことでしょう。
「癒し」ってなんだろう
伊良部先生は、患者の話をあまり聞きません。素晴らしい薬を処方するわけでもなく、役に立つ療法を試してくれるわけでもないのです。ただ、彼は自分がやりたいようにやるだけです。それも、突拍子もないことを。
伊良部先生の外見はといえば、少なからず残念な感じです。
「いらっしゃーい」
ドアをノックすると、やけに明るく甲高い声が響いた。
失礼します、と言って中に入る。医師らしき、太った中年男が一人掛けソファにもたれかかっていた。
うえっ。口の中だけでつぶやいた。広美のもっとも忌み嫌う、色白のデブだ。しかもボサボサの髪にはフケが浮きでている。足元はサンダル履き。胸の名札には「医学博士・伊良部一郎」とあった。
「受付から聞いてるよ。安川広美さんだよね。夜、眠れないんだって」
そう言ってにっと歯茎を見せる。広美は直視しないよう視線を下げ、椅子に腰をおろした。
「二十四歳で職業はタレント兼モデルさん。どんな仕事してるわけ」
「テレビのアシスタントをしたり、雑誌のモデルをしたりしてます」
実際は仕事の大半がイベント・コンパニオンだが、かつてはそういう仕事もしていたのだ。
「すごいじゃん。今度出るとき教えてね、ぼく見るから。ぐふふ」
なんて気味の悪い笑い声だ。背筋に悪寒が走る。
いろいろと残念です。外見だけではなく、中身も。
「広美さん、もちろん独身だよね」伊良部がうれしそうに聞く。
「あ、はい」答えながら鳥肌が立った。広美さん、だって?
「ぼくも独身。ぐふふ」
伊良部が頭を掻き、フケがパラパラと落ちた。思わず腰を引く。
「この病院の跡取りで、乗ってる車はポルシェで、B型のてんびん座」
だからなんなのよ。あんたが自己紹介してどうする。
「年は三十五だけど、そうは見えないでしょ。若く見られるし」
嘘だろう? 四十五に見えるぞ。
「あのう、診察は……」遠慮がちに口を開いた
「あ、そうだね。一応聞いとかなくっちゃ」
どんな風に突拍子がないかはネタバレになるので書きませんが、普通の医者は……いや、普通の人間はやらないことです。
ただそれでも、伊良部先生の子どものような振る舞いや、奇矯な言動を見ていると、なんとなく爽快な気分になります。ひょっとしたら、「この人よりは自分のほうがマシかも」とでもいうような気分かもしれませんが、いつの間にか肩の力が抜けているような気がするのです。
それはひょっとしたら、ある種の「癒し」なのかもしれません。
現代社会のストレスに立ち向かうために、伊良部先生は必要なのです。