不愉快さにどこまで耐えられるかが鍵 | [書評]彼女がその名を知らない鳥たち

彼女がその名を知らない鳥たち
著者: 沼田 まほかる
ISBN:4344413784 / 発売日:2009-10
出版社.: 幻冬舎

不愉快な人物たちの不愉快な関係

主人公である十和子も、一緒に暮らす男性・陣治も、どちらもあまり愉快な人物像とは言えません。

十和子にベタ甘な陣治に関するエピソードは特にひどいです。人物の卑小さ、下品さが事細かに描写され、十和子との出会いはストーカーまがいでもあり、その上で発される十和子への愛の言葉には嫌悪感を禁じ得ないし、対して、十和子のほうも決して魅力的ではないのです。日常は、モラトリアムと呼ぶのさえ憚られるような生活ぶりで、その感情の振れ幅には危うさがあり、ネガティブな意味合いでの近寄りがたさを覚える人物像です。

観てしまったDVDとビデオ十本を布製のバッグに入れて部屋を出る。こうしてレンタルショップに行く以外はほとんど外に出ない。必要な用事はこのときにまとめてすますようにしている。

エレベーターの方へ行きかけると、通路の向こうから同じ階に住む大学生風の青年が歩いてくるのが見える。あわてて目を伏せる。追い詰められた気持ですばやく計算する。このままいけば彼の方が先にエレベーターの前に着く。ボタンを押して十和子を待つだろう。エレベーターより手前の角を左に曲がれば階段がある。階段で下りれば顔を合わせずにすむ。だが四階から階段で下りるというのはいかにも不自然だと思われないか? 忘れ物をしたふりをして部屋に戻るというのもやはりわざとらしいだろうか? そんなことより通路を歩いている今このとき、どんな表情をしてどこに視線を定めればいいのか? こわばっていく。顔も歩き方も気持も。

日がな一日、DVDを観て過ごし、生活は同居する陣治に全てを頼り、あげくに十和子は陣治をひどく蔑むのです。

陣治を傷つけたい。最も効果的にダメージを与える言葉を選び出して、陣治の心臓にまっすぐ突き立てたい。淋しいから陣治と一緒にいるのか、陣治といるから淋しいのか、十和子にはわからない。この瞬間の自分が、陣治を拒んでいるのか求めているのか、それさえもうわからなくなっている。

「え、どうやの、ひとつも見せられへんの。見せられへんねやな。やっぱりそうや、陣治は男やないんや」

〈男ではない〉と言われることで陣治が二重に傷つくことを知っていて言う。陣治はT建設に入社した直後に罹ったひどいおたふく風邪の後遺症で、医者から無精子症と診断されていた。

「男やのうて、人間でものうて、そうや、あんたなんかくねくねした色真っ黒のどじょうや。どじょう以下のどぜうや。どぜう鍋の、ど、ぜ、う。陣治は種なしどぜうや」

どっか病気の十和子。可哀そうな十和子。人非人の十和子。

ねっとりと嫌な部分ばかりが描写される

また、十和子はクレーマーでもあります。

テープで壁にとめつけてある請求書やメモのなかから目的の一枚を探り当てて、すぐに番号を押しはじめる。焦って押し間違えるがやり直し、やがて中丸屋の交換手が出る。文具売り場への取次ぎを頼み、売り場が出ると担当の女性店員の名を言ってかわってもらう。

「ああ、北原様、お手数をかけて申し訳ありません。お預かりしている時計のことでございますね」

「ええ。そうなんです。ほんとにもうそろそろなんとかしてもらわないとと思って。送ってから一ヵ月近くになるし、電話もこれで三回目ですし」

必要以上に冷たい事務的な声になる。

「はい。申し訳ございません。実は前回のお電話の後も販売業者に部品のことをいろいろと調べさせたのですが、なにぶんにもこの時計のメーカー自体がすでに操業を停止しておりまして」

「それは先週電話したときにお聞きしましたよね」

危うさと泥臭さ、破綻の匂いを溢れんばかりに内包した物語です。どこもかしこもドロドロとしています。けれどその中でふと「大事なことをまだ知らされていない」と唐突に気付きます。

もちろんそのための違和感は最初から全て用意されていて、予想も出来ていたはずなのに、気付いた瞬間には、その先を知りたくないような、奇妙な焦燥感が芽生えるのです。

泥の中の宝石

唐突に膨れあがる焦燥感と違和感の中、最後まで読み切ってしまうと、今まで下卑たものとしか見えなかった時間がとても愛おしいものに思えてきます。

文庫版解説によると、単行本初版時の帯には「それでも恋と呼びたかった」という惹句が書かれていたといいます。それを受けて書かれた解説者の当時の書評には「これを恋と呼ぶのなら、私はまだ恋を知らない」と記したとか。

その解説者(藤田香織氏)と同じ感想を多くの人が抱くでしょう。この物語は、多くの人が知っているどんな恋とも愛とも違います。違うけれど、確かに愛おしい。宝石の輝きではないし、甘酸っぱくてほろ苦いような爽やかさもない。寄り添いたくなる親密さもありません。ただ、澱みきったヘドロの中に、歪だけれど美しい結晶を一粒見つけ出したような、そんな気分にさせられます。

もちろんそれは、手に取ればもろく崩れ去る一粒だけれど。

導入部でげんなりする人も多いでしょう。けれど、最後まで読んでみてほしい。

きっと「ああ、そうか」と思わず口を突いて出ます。

彼女がその名を知らない鳥たち
著者: 沼田 まほかる
ISBN:4344413784 / 発売日:2009-10
出版社.: 幻冬舎

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