仏教をヒントにしたストレス解消の仕方とは | [書評]諸行無常を生きる
「諦める」ことは悪いことじゃない
「努力」「根性」といった精神論が未だに根付いているこの国では、「諦める」ことをなかなか良しとしません。
しかし諦めるというのは、本当にダメなことなんでしょうか?著者のひろさちや氏はこの「諦める」について仏教的観点に即した解説をしています。たとえばイソップ童話にある「酸っぱい葡萄」。食いしん坊なキツネが、高い場所に実をつけていてどうやっても取れない葡萄を、「どうせあの葡萄は酸っぱいに決まってる、食べない方がいいんだ」と言い残して立ち去る話です。
多くの人はこれを「負け惜しみだ」と解釈しますが、仏教的には違うようです。
サラリーマンが粉骨砕身努力して、ようやく課長になっても、そこでやらされる仕事は部下に因果を含めて希望退職という名の首切りをすること。それじゃあ割が合いませんよ。
そこへ行くと狐は立派です。「あれはうまそうだな」と葡萄にジャンプします。しかし、届かない。ならばもう一度と。今度は本腰を入れて飛び付く。でも、届かない。
その二度で十分です。
「もうやめた」ときれいさっぱりあきらめた狐わたしは、この狐のほうが仏教的だと思います。
己の実力と才能を分相応にわきまえ、無理なものは無理と諦めること。それが諦めを超えた「明らめ」につながると説いているのです。
「餓鬼」は飢えた子供のことではない
仏教の世界でたびたび登場する「餓鬼」。
多くの人の頭の中で、餓鬼は痩せこけてお腹がぽっこり出た子供、というイメージだと思います。しかし本来、餓鬼とは「貧しい人ではなく、いくら持っていても満足できない人」を指すのだそう。これには目から鱗でした。
確かに経済を回すために、贅沢品を作り、物質的な豊かさを魅力的にプロモーションするのはわかります。しかし、物質的な豊かさを精神的な豊かさに結びつけることはちょっと違うんだな、と。
先日、テレビで元ウルグアイ大統領のムヒカ氏が同じような演説をしていたのを見ました。また老荘思想にも「足るを知る」という言葉があります。国や宗教にとらわれず、このような考え方は古代から現代至るまで大切にされているんですね。
仏教思想は日常を気楽にさせてくれる
私は特別どこかの宗教に入っている、という訳ではないのですが、日常生活のエッセンスを求めて宗教本を読むことはよくあります。そこで目に入ったのがこの本でした。
内容はかなりわかりやすく、仏教を知らない人でもすんなり頭に入ってきて、時折ユーモアも織り交ぜているので肩肘を張らずに読めました。
ストレスフルなこの現代、つらい日常がちょっと気楽になる一冊です。