四谷怪談と同じ道具立てで紡がれる、全く違う物語 | [書評]嗤う伊右衛門

嗤う伊右衛門
著者: 京極 夏彦
ISBN:4043620012 / 発売日:2001-11
出版社.: 角川書店

お岩さん、伊右衛門と結婚する

伊右衛門とお岩……といえば四谷怪談。「お岩さん」はおそらく、日本で一番有名な幽霊ですよね。大方は、伊右衛門が悪い男で、お岩から心変わりしたあげくに毒を盛ってその顔を醜く爛れさせ、それを恨みながら死んだお岩が伊右衛門を祟り殺すといったようなストーリーですが、京極版のこれはひと味違います。

伊右衛門もお岩も、生真面目で不器用な、心根の美しい人たちとして描かれます。お岩は、病気がもとで顔の半分が醜く爛れてしまうのですが、伊右衛門と結婚するのはその後です。

酒癲(さかがり)ならば御酒を断てば良かろう。花癲(かてん)ならば色欲情欲を堪え鎮めれば済むことであろう。だが容貌(かおかたち)の醜きを治せ、容姿(すがた)の可笑しきを正せといわれても如何ともし難い。四六時中面形(おもがた)を被って過ごす訳にも行くまいし、それでもならぬというならば、死ぬより他に道はあるまい。

ただ醜いから死ねというのなら、そもそも蛇蝎に生きる権利はなかろう。

そうかといって毅然としておれば、やれ気狂いじゃ風癲(ふうてん)じゃと囃される。

岩はそれまでも、己の容姿の美しきを鼻にかけたことなどなかったし、今とても己の醜きを恥じてなどいない。勿論気が狂れていることもない。ただいつも堂堂と、分相応に振る舞っているつもりである。それなのに──。

岩は憤りが押さえられずに、畳を二度三度打ち、それでも収まらず障子に指を突き立てた。

ぱん、と弾けるような音がした。
指を引き下ろす。ざりざりと障子紙が裂ける。庭が覗いた。
風通しが良くなる。外気を吸って、岩は少しだけ清清する。

──わしは間違うておるじゃろうか。
岩は自問する。

江戸時代が舞台の話なので、時代がかった言い回しも多く、それに加えて“京極節”も炸裂していますが、読み進めるうちに、文章の独特のリズムが馴染んできます。ある種の音楽を聴いているような、弁士が滑らかに滔々と語るのを聞くかのような。

すれ違う人々

登場人物のそれぞれが不器用に互いを思い、時には間違い、そうして入り組んだ状況を作り出していきます。

岩の父である又左衛門もまた。

又左衛門は苦悶した。岩はことある毎に婿など要らぬと言うのだが、本当にそれでいいものか、如何あれ妻となり母となることが、矢張り良いのかもしれず、そうでなくても徒に、父の都合でその道を、勝手に閉ざして良いものか──思案を重ねた末、又左衛門は決めたのだ。

お役御免となる前に婿を捜し、岩と添わせ、跡目を譲ると──又左衛門はそう決めた。
そして初めて又左衛門は、岩に対して──積極的に──婿取りを持ちかけたのだった。
予想通り岩は、それまで通り猛烈に拒んだ。婿など要らぬと言った。

のみならず。
岩は、株など売ってしまえ──とも言った。予想外のことであった。

又左衛門は愕然とした。娘が株を売れ家を潰せと、本心から思うている筈はない。それは、絶対に岩の本音ではあるまい。岩の言葉を額面通りに受け取ってはならぬ。ならば──。

狼狽の後、又左衛門はすぐに娘の心情を察した──つもりになった。
己の醜い面で婿取りなど叶う訳はないと、岩はそう思うているに違いないのだ。
不憫でならなかった。又左衛門は何故か酷く後悔し、動揺したことを覚えている。

──心配致すな。
どんな手を使ってでも婿を捜そうと、又左衛門はそのとき強く思ったのだ。

伊右衛門の人となり、岩の心情、又左衛門の思惑、そこに町人たちや、狂犬のような上役の喜兵衛、哀れな身の上の梅たちの事情が絡み合い、いつしか後戻りできない状況になっていきます。

誰が悪いのか

どうも、岩は伊右衛門のことが嫌いではないらしい。伊右衛門も岩を好いている。それでも解り合うことがならぬのだろうか。岩は伊右衛門に辛く当たり、伊右衛門はそれに耐え、耐えることが岩を駆り立て、伊右衛門は追い込まれて、岩もまた──。

──そんな悲しいものなのか。

喜兵衛は黙っている。梅が思うに、岩の返答は喜兵衛の予想したそれとは大きく異なったものだったのであろう。嫉妬して激昂して──という並の筋書きを喜兵衛は立てていた筈である。

誰が悪いかと言えば、徹頭徹尾、悪人として描かれるのは上役の喜兵衛です。紛う事なき悪人とでもいうべき人間です。

ただ、この小説を読み終わった時に感じるのは、喜兵衛の悪辣さではなく、伊右衛門と岩の悲しさです。誰が悪かったのか、どこが違っていたのか、どこからならやり直せたのか、そう考えたくなるのは、歪な形となってしまった二人の悲恋が、もし正しい形になっていたらどんなにか幸せだったろうと思えるからでしょう。

おなじみの四谷怪談と同じ道具立てで、全く違う物語が紡がれてます。四谷怪談を知っている人も知らない人も楽しめることでしょう。

嗤う伊右衛門
著者: 京極 夏彦
ISBN:4043620012 / 発売日:2001-11
出版社.: 角川書店

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